サポートとは まず本人がどうしたいと思っているのか確認することやろ?イケメン息子の想いから。

アメブロ過去記事3月10日投稿記事より・・・

 

本日のブログは2013年9月2日に投稿された記事を加筆修正し
再投稿したものです。
昨日今日と過去記事なのは、明日の記事に繋げたいので…
お許しいただける方は 宜しくお付き合いくださいまし…


昨日のブログ 

「人の話が聴けない大人たち…」

にふじたは
「可哀想」という言葉に反応する。
と書いたと思います。

昨日のブログのコメント欄にも
「私も可哀想という言葉に反応するんだ」
という内容を書いてくださってる方がおられましたので
今日はちょっとそこにフォーカスを当てたいと思います。


実は以前にもブログで、このことについて
書いた事があるんですよ。

何処だったっけなぁ~~~

あ、ありましたありました^^
これです^^

「かわいそう?誰がですか???」


ここに書いた通りですね。


子どもを亡くした時
これは経験者にしか理解できない感情で
それを誰かに こちらも分かってほしいとは
実は思っちゃいない。

それを未経験者が安易に近づいてきて
「お気の毒に…」
と声を掛けてくる。

もう正直 
ヘドが出そうなくらい気持ちが悪く
吐き気がしました。

自分たちだけでお寺さんに頼んで
お経をあげてもらって
誰にも言わずに こっそりね。

ふじたの夫が先日書いたブログで
「葬儀に参列する、参列しない、どちらにも理由があります」
同僚の葬儀に参列しなかったのも 
ふじたなりにですが、理解しているつもりです。

人は経験によって
行動や、
感じ方が
個々に違って当たり前なんですね。

自分がさらし者になったように感じた
経験があれば
似たような立場の人に遭遇した時

その人を守りたくなって
さらし者になる対象者にとって
ギャラリーの人数を一人でも減らすべく
自分だけでも参列しないで
遠くから手をあわせるだけで立ち去ったとしても
OKだと思うのです。

逆に最後の別れを惜しみたくて
参列するのもOKなんですね。。

また、その中には人の不幸に対して
密かに喜んでいる人が
居ることも あるかもしれません。

ちょっと書いてるふじたも非常に嫌な気分ですが
それは誰しも実は経験がって
例えば兄弟がいた場合

ケンカして親から兄弟の前で
叱られる自分を経験した時
「悔しい気分」
「腹立たしい気分」を味わい、

逆に自分ではなく兄弟が親から叱られるのを
目の前で見たとき
「ッケ!ざまぁ~見ろ!!」

っていう感覚に近いかもしれません。

(世の中 そんな兄弟ばかりでは
ないと思いますが^^)

色々な感情が入り混じった場だからこそ、
夫のように

「行きたくない」
「苦しい」

ということになる。

それは「死」を認めていないのではなく
「その家族を守りたくて」

「行けない」のです。

つまり、そこには過去の自分が居るんですね…

ふじたのイケメン息子が中学の時に
同級生で(クラスは違うのだけれど)
家族を亡くした人が居ました。

担任がそのことについて
クラスメートに報告した時、息子は

怒りの感情を剥き出しにしました。


息子…
「自分の家族が亡くなったことについて
皆に知らせても良いかどうか
本人に了承を得ているのか。」

先生…
「葬儀に参列したいと思う人も
居るかもしれないでしょう?」

息子…
「そんなんどっからでも情報入るわ!
行きたい人は自分で考えて行けばいいさ!
けど、今ここで言う必要が、
どこにあるんかって聞いてんねん!!」

先生…
「でもね、登校してきたときに・・・」

(ここで言葉をさえぎるように)

息子…
「”大丈夫?”
とか
”可哀想に・・・”
・・・なんてわかったようなこと言って
声掛けろ言うんか?
俺はそんな残酷なこと言えないね。
いつも通りや。
通常通り廊下ですれ違う。
何やねん!ほんま ムカつくわ!!!」

(余談ですが…
この日、家族を亡くした生徒と
同じクラスの父兄数名から

「学校から緊急連絡があって
葬儀の時間を知らされたが…
クラスメートとはいえ
親しいわけでもなく…
そんな関係の人に来てもらって
相手はどう思うのだろうか…」

という相談が入りました。
この方たちは ふじたの夫の感情に
少し似ています。

深い間柄でもない人に来てもらうのは
向こうも本当は嫌ではないか…
という声が上がったんです。
学校側も悩むところですね…)




息子の言わんとするところ、
よく理解できない生徒もいたんでしょうね。

クラスメートからも
「ふじた どうした?」
って感じだったと言います。

担任からも
「邪魔くさい!」
と言われてしまう始末xxx

これは息子自身も辛い経験をしたときに
分かったような顔をして近づいてきて
物を言われた経験から来る感情なんですね。

だからこそ、他人から自分を見られたときに
「可哀想な人」
呼ばわりされることを最も嫌うんです。

こういう時は周りからどうされたいか
知ってるからこそ

勝手に決めつけて
可哀想な人に仕立て上げられ、
そこの舞台から
自ら降りれなくされるのを嫌うのです。


(※ まぁ、どうされたいかも
実は本人に聞かないと
分からないことではありますが…)

可哀想かどうかは
他人が決めることじゃないんです。

逆に幸せかどうかも
他人が決めることではないのです。


ようは誰かを見て
可哀想とか幸せそうと感じたときは、
その感じた本人の問題なんだということです。

問題って言うと、
ちょっとニュアンスが違う気がしますが…

まぁ、そんなことです。

つまり、

お金が無くて苦労した人は
お金持ちの人を見て
「幸せそうだ」と感じるかもしれませんが

お金があっても心が満たされていない人は
お金があるからと言って
「幸せだね」
て言われることに
嫌悪感を感じる人もいるでしょう…

けどね、これって
誰もとっくに
知ってるんことなんじゃないかなぁ~~~

そう思いながら書いた ふじたでした!!

そんなこんなで ふじたは

「かわいそう」

という言葉に反応するのでありました。

人によっては他にも反応する言葉があって、
その違いもあるんでしょうね…


今日は

サポートとは 
まず本人がどうしたいと思っているのか
確認することやろ?イケメン息子の想いから。」

についてでした。




可哀想って言葉を使うことで
本人の気持ちを無視して
勝手に周りが決めつけて動くことは


「邪」


なんですね。


そして、何より

”身勝手なもくろみ”から
当の本人の気持ちを聴くことなく
また 親族の気持ちも確認することなく
何かをやらかすことは




最も 「邪」



であります。

これについて 明日のブログで
出せたらいいなって思っています…






本日のアメブロ記事…

 いつだって決めるのは自分。何を取り入れ何を捨てるかも決めるのは自分ですね^^

 

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